言の葉の火葬場

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく、書いて、吐いて、そうしてどこにもいけない、言葉達をせめて送ってあげたい。そんな火葬場。

星明かりとエーテルに関する幾つかの考察

そこは水で満ちていました。

しかも、恐ろしく軽く、恐ろしく透明な水でした。

あまりにも軽い水でしたから、波も立ちませんし、泡もたちません。

ですから、波が砕けるシャワシャワザブザブという音も、泡が弾けるブクブクパチパチという音も聞こえません。

その海は一年中しいんとしていました。

さらには、あまりにも透明な純水でしたから、生き物は、たとえ泳ぎのうまいトビウオだって、息継ぎ要らずのクジラだって、その水の中では泳げないのでした。

そんな海の中を自由に泳ぎ回るものがおりました。

彼は物凄い速さで、静かに、矢のようにその海を泳ぎ回っていたのです。

彼は孤独でした。

もう、何百年も、一人で、海の中を一生懸命泳いでいたのでした。

けれども、あまりにも長い旅でしたから、一体いつ旅立って、どのくらい来たのか、もう、分かりませんでした。

それでも、五十年に一度くらい、故郷の母様のことを思い出すことがありました。そうすると彼は少し淋しくなって、ちょっと振り返ってみるのです。あんなにおっきくて偉大だった母様はもう、米粒よりも小さく見えました。それでも、赤々と、煌々と、輝いているのでした。それを見ると彼は安心した気持ちになり、もう、あと五十年、脇目もふらず真っ直ぐに旅を続けられるのでした。

さて、最後に母様の方を振り返ってから、十年か二十年くらいたったころでした。彼の進む方角の先の先、そのまた先に炎のようにゆらゆらとたゆたう青い光が見えてきました。彼はこのままではぶつかってしまうと思いましたが、もう、随分と長い間、誰もいない、取りつく島のない海を泳いでいたものですから、舵の切り方も止まり方も、とうに忘れてしまっていたのでした。ですから、彼はその青い光へと突進していくしかありませんでした。

ぐんぐんと近づいていくと、それは一つの星である事が分かりました。表面には青い水が薄く膜を張っていて、その周りにはさらに薄い、ベールのような白くて柔らかそうな水で覆われていたのでした。

「僕は、今まで長い間、旅をしてきだけれど、青い水や、白くて柔らかそうなあんな水は、見た事も聞いたこともないぞ。でも、この透明な水の中を泳ぐのも飽きたところだから、ちょうどいいや。どれ、少しあすこで泳いでみよう。」

彼はそう呟くと、その水めがけて、えいやと物凄いスピードで飛び込みました。

一見すると柔らかそうな白いその水は、実は蜂蜜のように非常にねっとりとしており、彼はたちまち息ができなくなってしまいました。しかも、水面にどぷんとぶつかった瞬間、恐ろしいほどの衝撃が体をぬたぬたと揺らし、パキパキという音があたりに響き渡りました。慌てて後ろを振り返ると彼の体の一部が砕けて、赤い光を放ちながら、さらさらと消えていくのが見えました。彼はもう、恐ろしくって、苦しくって、泣きそうになりました。

眼前にはもう、あの青い水面がすぐそこに近づいています。しかも、青い水はさらに確かな質量があるようで、水面ではシャワシャワザブザブと音を立てて波が砕け、ブクブクパチパチと音を立てて泡が弾けているのでした。彼はそんな青い水面に墜落するしか、もう、手はないのでした。

「ああ、母様。僕の旅はここで終わりなようです。もう一度、あなたにあって、たくさんのお礼を言いたかったけれど、それはもう叶いません。どうか、いつまでもお元気でおいでください。そして、どうか、僕のことを忘れないでください。ああ、もうだめです。水面がすぐそこです。母様、愛しております。」彼は必死なって母様に向かって叫びました。そして、彼は、ついに青い水面に激突しました。以前の、何百何千倍もの衝撃で、彼の体は一瞬で砕け、水面に赤い光の筋を描きました。

彼は小さくなりながら、何度か水面に衝突しながら、水切り石のように水面をはぜておりますと、その転がる先に、一人の女の人がおりました。その人の目は母様とおんなじ赤色をしていました。

彼は堪ふる限りの最期の力を振り絞って、その人の左目に飛び込みました。すると、その瞬間、彼の体は今まででいっとう輝き、あたりは煌々と赤い光で満たされたのです。それは、まさに母様の赤でした。それと同時に彼は、旅立つ日の母様の言葉を思い出しました。

「いいかい、坊や、おまえは、この方角へ、真っ直ぐに泳ぐんだよ。ここからずうっと遠くに青い星があるから、そこを目指すんだ。おまえは賢い子だから、きっとできるね。寂しくなったら振り返りなさい。いつでも、いつまでもおまえを見ているよ。さあさあ、お行きなさい。永遠にお前を愛していますよ。」

彼は、母様の言いつけのとおりに旅を終えられたことを、本当に、本当に、嬉しく、誇らしく思いました。そして、彼は母様の光に包まれながら、ふっ、と消えていきました。

 

「見て、水たまりに星がうつっています。まるで鏡のよう。あの、赤い星はなんと言うのかしら。」

彼女は潮溜まりを指差して言いました。

「あれは、ベテルギウスという星です。地球から光の速度で数百年かかる距離にあるそうです。」

と、私は答えました。

彼女は、少し寂しそうな、でも、少し嬉しそうな顔をして言いました。

「何百年もの間、ひとりぼっちで宇宙を旅して、その旅の終着点が、たまたま、水たまりにうつった星を見ていた、私だなんて、なんだか、奇跡のような出会ですね。」

私は、空に浮かぶ赤い星を見上げながら、本当に、そうですね、と答えました。

今夜はよく晴れていて、夜空にはたくさんの星が見えました。そして、私はこの宇宙を旅する無数の星明かりたちの旅の安全を、静かに、祈ったのでした。