ちらし寿司
朝起きると、泣いていた。
きっと、昨日街で見かけた、可愛らしいカップルのせいだ。
女性の手を一生懸命握って、にこにこしている男の子。
女性の方もなんだか、誇らしげな顔をしていた。
私は祖母を亡くして随分と時間が経った。
成人した姿を貴女に見せることができなくて、悔しかったという気持ちが、ふと、線香の香りのように微かに思い出されて、不意に涙が出そうになることが、まだ、ある。
ああ、そうだ、今日の夕飯は、スーパーでちらし寿司を買って帰ろう、そう心に決めて私はネクタイを締めた。
甘い毒
その香りは私の心臓を鷲掴みするの。
貴方がね、近くにいると喉が渇いてきて、空調が効いているのに汗が滲んでくるの。
汗の匂いがしていないかしら、私は天女ではないので、きっと毛穴も見えてしまうわ。
睡眠不足のせいね、頬骨のてっぺんに出来た小さな発疹も、貴方に見られたくないのよ。
だからね、近づきたくないの。
いいえ、嘘。
本当は、近づいて欲しいの、触れて欲しいの。
貴方が好きよ。
カラン
今、男のくせに甘いお酒が好きだなんて格好が悪いな、と思ったでしょう。なんて、そんなことない、カルーアミルクが大好きなところも好き。
でも、後半は声に出ない。
貴方と口づけをしてみたい。
カルーアミルクの味がするかしら。
でも、きっと、猛毒だから、唇は火傷のように爛れてしまうわ。
そうして、唇の毛細血管から侵入した、その甘い毒が身体中の血管を破裂させて、私は死んでしまうと思うの。
終世記
第一日
彼がやってくる。
死の病原を撒き散らしながら。
第二日
彼が街を蹂躙していく。
たくさんの死体と瓦礫と孤独を生み出して。
第三日
彼が全てを焼き尽くす。
死体も瓦礫も孤独も、そして悲しみさえも、その一片も残さず、灰すら残らない。
第四日
悲しみを失った世界に彼は立つ。
大地の砂と同じだけあった悲しみはどこにもない。
第五日
彼は世界を見渡す。
世界には意味のあるものは何もなく、光と、大地と、海と、空とが、ただ彼のためにある。
第六日
彼は咆哮をあげる。
答えるものはおらず、大地も、海も、空も、もはや必要とされない。
第七日
彼は静かに目を閉じる。
そうして世界は光を失った。
蜂蜜とドーナツ
蜂蜜を頂戴。
ドーナツにかけるの。
キスして頂戴。
ドーナツのあなの中、甘い秘蜜で一杯にしたいの。
そうしたらね、お礼に、蜂蜜のかかったドーナツをあげるわ。
ライラック
愛する者を失うのが、これほど恐ろしいものであると、実感できたのは、あの、汽車の中だった。
君との友情が、本当にこのまま、永遠に失われてしまうとしたら、そう考えると、パイプをくわえた口が、パイプを持つ手がぶるぶると震えた。
私は私の怠惰を呪った。
私は私の君への愛を実感した。
私は私の君への愛を疑った。
そうして、私は今まで信じてきた私の知識と、記憶と、観察力がたった一人の友人を守れなかったことに絶望した。
ただ、君が心配であった。
それでも、客観的に、冷静に、状況を整理し仮説と論理を組立てるために、坂道で車輪止めを失った馬車の車軸のように慣性に従って、転回している私の脳一部が、狂おしいほど、恨めしかった。
熱を持った有機的な感情と、どこまでも冷たく無機質な推理が脳の中で散乱し、ハレーションを起こし、そのまぶしさで涙を流した私の瞳は、確かに車窓からライラックの存在を認めた。
嫌いなものと好きなもの
あたし以外の誰かに向ける、あなたの微笑みが嫌い。
あたし以外の誰かに向ける、あなたの優しさが嫌い。
あたしじゃないあの子に向ける、あなたの好意が嫌い。
あなたがあたしに向ける、好きという言葉が一番嫌い。
そうして、あなたを大嫌いなあたしがあたしは好きなの。