言の葉の火葬場

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく、書いて、吐いて、そうしてどこにもいけない、言葉達をせめて送ってあげたい。そんな火葬場。

老人と旅人

あるところに、一人の老人がおりました。老人はかつて旅人でした。7つの海を越え、8つの大陸を渡り、9つの大砂漠を跨ぎ、そして、無数の山や草原や川や町や村を歩いてきたのでした。

老人が歩いたことのない道は、もはやこの地上には、一つもありはしないのでした。

しかし、老人はもう、旅をすることはできません。それほど、年老いていたのです。

ある冬の嵐の晩のことです。彼の住まいに一人の若い旅人が訪ねてきました。その若者は一晩、泊めてくれるように老人に頼みました。老人は、村外れの小さな家に、孫娘と二人っきりで暮らしておりましたから、大好きな旅の話を聞くことなど、ほとんどありません。ですから、旅の話をしてもらう代わりに、一晩、泊めてあげる事にしたのです。

さて、暖かい食事のあと、若者は今までの旅の思い出を語り出しました。しかし、彼が今まで旅をしてきた場所を老人は、全て知っていて、そして、はっきりと覚えていたのです。若者はすっかり感心してしまいました。

「あなたは、今まで出会った中で、最も偉大な冒険家であります。どうか、私にあなたの旅の思い出をお聞かせください。」若者は、そう、老人に頼みました。老人は嬉しそうに、今までの冒険譚を聞かせてあげました。

それは、氷の大地に咲く、水晶でできた花の話。

それは、雲よりも高い山でみた、虹色に輝く羽を持つ蝶の話。

それは、灼熱の砂漠で見つけた、蜂蜜の味がする泉の話。

それは、桃のような香りの薄紅色の朝靄に包まれた草原の話。

どれも、これも、若者が今まで見たことも聞いたことものない、景色なのでした。

「あなたには、本当に行ったことがないところがないのですね。」若者が目を輝かせながら言いました。すると、老人は、静かに首を振り、こう言いました。

「私にも、まだ、行ったことのないところが、一つだけあるのです。私は、長い間、旅をしてきましたが、そこが、いま、一番行きたい場所なのです。」

若者はびっくりして訪ねました。「それは、どこなのですか?どうか、教えてください。あなたほどの、偉大な冒険家が、その人生において、一度も行くことができなかったその場所に、私は是非行ってみたいのです。」

すると老人はこう答えました。

「あなたがそこに行くのは、まだ、早い。そこに行くには沢山の素晴らしい景色を見て、沢山の美味しい食べ物を食べ、沢山のやさしい人と出会わなければならないのです。そして、人生の最後に、満ち足りた気持ちでその場所へ旅立つのですよ。」

若者は、その場所がどこなのか、なんとなく分かりました。

「その場所はどんなところなのでしょうか。」若者が尋ねると、老人は微笑みながらこう答えました。

「行ったことがないので、私にも分かりませんが、きっと今までで旅をしてきたどんなところよりも、素晴らしいところなのでしょう。そこから、戻ってきた人は世界広しと言えども、一人もいないのですから。」

 

冬の嵐は去ったようでした。風の音はもう聞こえません。空にはきっと星空が広がっていることでしょう。明日は素晴らしい旅日和になるようです。