言の葉の火葬場

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく、書いて、吐いて、そうしてどこにもいけない、言葉達をせめて送ってあげたい。そんな火葬場。

雨やどりのクリームソーダ

昨日の天気予報どおり、今日は今朝からずっと雨が降っている。

私は1人、早めの夕飯を済ました後、傘を2本持って駅前の行きつけの喫茶店に入った。

「お待ち合わせですか。」

そう、声をかけてくれた若い給仕さんは、最近入ったばかりなのだろう。顔に覚えがない。

とても可愛らしい笑顔の素敵な女性だ、きっと妻なら放っておかないだろう。あら、可愛らしいだの、出身はどこなのとか、好きな食べ物はなにかしらとか、好きな作家はどなた、など次々に質問をして彼女を困らせるに違いない。

「ええ、駅まで妻を迎えに来たのですが、この雨ですから、雨やどりを少々」

彼女はにっこりと微笑んで、お好きな席にどうぞと、一言。

私はそのカフェの中でもお気に入りの窓側の2人がけのテーブルにつく。

2本の傘は少し高めのテーブルの端にちょこんとかけた。

このカフェは小さな駅のロータリーに面していて、私が座った対面の席からは駅の正面階段がよく見える。今はちょうど帰宅時間であり、多くの学生や会社員などが傘をさしながら正面階段を降りてくる姿を観察することができる。

つまるところ、傘を忘れた愚か者の帰りを待つのにはうってつけの席なのだ。

先ほどの給仕さんがお冷やを1つとおしぼりを2つ、そしてメニューを持って来た。

私は、ホットコーヒーを1つ注文した。文庫本を取り出し、しおりの挟んであるページの少し前から読み始める。サン=テグジュペリの夜間飛行だ。

まもなく、注文したホットコーヒーが運ばれて来た。ごゆっくり、と声をかけてくれた彼女に私は、ありがとうと微笑んだ。

ホットコーヒーを一口すする、口いっぱいに苦味が広がって、思わず顔をしかめてしまう。やはり、コーヒーは苦手だ。あいつは、よくもまあ、好んでこんな飲み物を飲むもんだと、思った。

いつもはクリームソーダを頼むのだ。でも、いい年した男が今日初めて会った給仕さんにクリームソーダを注文するのはなんとなく気恥ずかしく、柄にもなく格好をつけてしまった。それと、あいつがいつも頼んでいたから、というのも理由の一つではある。

私は、文庫本をパタンと両手で閉じると、意を決して、クリームソーダを注文した。

 

「あなた、またクリームソーダなの。お夕飯食べられなくなってしまうわよ。」

クリームソーダを注文するたびに、いつも妻に小言を言われていた。

「いいじゃないか。好きなんだから。」そう、ささやかな反抗を見せると、決まって妻は、コーヒーを一口すすりながら、愛おしいものを見るように微笑んでくれた。なんだか、それが私がまだ小さい頃に亡くなった母の笑顔に似ているような気がして、とても、好きだった。

私がこの店で、クリームソーダを飲むのは、決まって雨の日。しかも傘を持たずに仕事に出かけた日に限る。

当時の天気予報といえば、今ほど信頼に足るものではなく、よく外れたものだ。

妻は傘を忘れた愚か者の私を迎えに、この喫茶店で雨やどりをするのだ。

コーヒーと文庫本を片手に、駅の正面階段がよく見える、今私が座っている対面の席に座り、私を待っていてくれた。

私は駅から出ると、小走りで喫茶店に入って、席につくとすかさずクリームソーダを注文する。甘くて、炭酸がキリリと効いていて、疲れた頭と身体がパチパチとほぐれていくのを感じていた。

いつしか、クリームソーダが飲めるので、雨の日が嫌いではなくなった。

 

今日は、珍しく私が妻をこの喫茶店で雨やどりをしながら待っている。傘を2本持って。

妻が来たら、なんと声をかけよう。

 

「おかえり。しばらく待ったよ。ところで、2杯目のクリームソーダを注文していいかい。」

「ただいま。あなたも、好きね。お夕飯食べられなくなってしまうわよ。」

 

きっと、貴女はあの微笑みをくれるに違いない。

 

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昨日の天気予報どおり、今日は今朝からずっと雨が降っている。

雨は好きではない。

母親譲りの癖っ毛がここぞとばかりに真価を発揮するからだ。

でも、お店が暇になるのは良いことかも、なんて、不謹慎な事を考えてしまう。

そんな折、傘を2本持った初老の男性が来店した。

とても、優しそうな人で、祖父のいない私は、おじいちゃんってこんな感じなのかな、となんとなく気になってしまって、つい、待ち合わせですか、なんて余計な事を聞いてしまった。

その男性は微笑みながら、妻を迎えに来たと、答えてくれた。

注文はホットコーヒー1つ。

窓側の席で文庫本を片手に奥さんを待つ姿は、とても落ちついていて、ああ、こんな風に老いていけたら、と思った。

私は恋人はおろか、好きな人すら出来たことがない。いつか、結婚もしたいとは思うが、まだ、そのイメージを描くことはできない。でも、窓際のこのカップルのように、お互いを思い合えるような相手と巡り会いたい、そんな事を考えていた。

しばらくすると、その男性は、とてもバツの悪そうな顔をしながら、クリームソーダを注文した。きっと、子供っぽい飲み物を注文するのが、気恥ずかしいのだろう。なんだか、失礼な話だけれど、とっても可愛くて、つい、笑みがこぼれてしまった。

男性は一時間くらい、窓際の席で本を読んでいたが、ついに、奥さんが駅から出てきたのか、男性はお会計を済ますと、2本傘を持って、お店をでた。

待っていた奥さんは、どんな素敵な女性なのかと、なんとなく気になって、しばらく男性を見ていた。

男性は、傘をさすと、迷わず駅とは反対の方向に歩き出した。遠ざかる背中はなんだか、寂しそうだった。

駅に迎えにきたのではなかったか、と不思議に思ったが、テーブルを片づけなくてはならないことを思い出し、トレイを持って窓際のテーブルに向かった。

テーブルには空になったクリームソーダのグラスと、ほとんど口をつけられていない、すっかり冷めてしまったコーヒーが残されていた。